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winny 



ITmediaNewsに「winnyを肯定的に議論する 」という記事が掲載されていた。
この中で、何カ所か気になった部分があったので、忘れないうちに記しておく(青字部分が上記記事よりの引用)。

利用者の多くはWinnyによって著作権が緩やかな世界を疑似体験することができた
一方的に社会的ルールである著作権を無視する行為が、なぜ疑似体験なのか。疑似体験と言ってしまうところに、筆者のこの事件に対するリアリティのなさを感じる。けして疑似体験ではない。匿名性が確保された世界で、みんなで違法行為にふけっていただけの話である。連続殺人犯は殺人が許される世界を疑似体験している。それは単に本人がそう思いこんでいるだけの話である。

ひとつには、技術の進歩により、情報の再利用性が高まっているにもかかわらず、現行の著作権法の権利処理は非常に煩雑で、再利用が困難だということがある。
著作物を牛乳パックや古新聞と同じ論点で語らないでいただきたい。ほっとくと盗人が横行するから、権利処理が非常に煩雑で再利用が困難にしてあるのではないのか。著作物は著作権者の財産である。その再利用を勝手に考えないで欲しい。

Winnyは、広帯域・定額のネットワークと大容量の記憶領域があるとき、それをどのように生かせるか、そこにはどんな情報空間ができあがるのかという壮大な社会実験だと見ることもできる。
winnyを実験と言ってしまうのは詭弁以外の何物でもないだろう。実社会に適用したときに、それがどのような結果を生むかを、実社会に影響がないような環境で検証を行う行為を実験というのであり、実社会において不特定多数が日常的に利用していたことを実験とは言わない。「新発見された核反応物質と物理学の知識があれば、どのような大量殺人兵器が可能になるのか、実際に作って作動させてみました〜」というのが社会的実験として容認されるのか?ウィルスはOSの脆弱性を検証する実験として容認されているのか。
また、広帯域・定額のネットワークをどう利用するのか?という発想そのものが、日本の箱モノ行政を見るようで悲しくなってくる。なんでFTTHをつかいきらなきゃいけないのか?広い道路ができたから戦車でも走らせてみましょう、というような理屈にも見える。


このように思想性のあるプログラムがその表現としての価値を認められず否定されるとすれば、どこかおかしい。
表現としての価値と、行為の社会的責任及び、違法性はまったく無関係であろう。死体の写真集というのが一時話題になったことがある。芸術表現として、死体を写真にとったり、モデルとして絵を描くことは容認されたとしても、芸術表現のために、殺人を行うことは容認されない。また、某国による拉致事件は某国の思想の表現として行われたと言えるが、この筆者はその価値を認める、というのだろうか?高層ビルに旅客機で突っ込むことを思想表現として認めるのか?


この記事以外にも、どうも擁護意見では「道具を作っただけで逮捕されるなら、凶器に使われた包丁をつくった人間を罪に問えるのか」という意見 が多くネット上でみられるが、これも方便にすぎない。この理屈が通用するなら「小型プルトニウム爆弾を作りましたが、これの本来の使い方は漬け物石です」とか「実弾が発射できますが、本来の使い方は文鎮です」というのもアリだろう。幼女誘拐監禁しているのを知りながら、部屋を貸し続ける大家が有罪なのかどうか、わたしは知らない。しかし、もし罪に問われないとしても、そういう人をわたしは軽蔑する。多くの擁護発言が「研究活動」を盾に取っているが、先にも書いたとおり、研究活動であれば実社会に影響のない研究室で行って欲しい。言論の自由、表現の自由は社会的責任を負うことが前提である。winnyの開発、配布行為が実験だったとは、ぼくは認めることが出来ない。 

投稿日時: 月 - 5月 17, 2004 at 04:04 午後     | |   Top