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考察:モノローグ 



モノローグについての考察。
小説やマンガではモノローグ(独白)という表現はよく使われる。演劇でもたまにあるが、映画ではほとんど使われない。映画「ブレードランナー 」の公開時には、主人公のモノローグが多用されていたが、これは映画会社の意向によって後から付け足されたもので、のちのディレクターズカットでは削除された。
映画でモノローグを使わないのは、おそらくリアリティが損なわれるからであろう。公開時のブレードランナーのように、安易なモノローグは映画を安っぽいものにしてしまう。「ひとりごと」がギリギリ限界で、説明的なセリフをしゃべってしまうと観客はしらけてしまう。「回顧録」のような体裁や、ミュージカルのような舞台的なものでないかぎり、映画でモノローグが使われることはほとんどないように思う。
これに対して、日本のアニメではモノローグが多用される。名探偵コナンも、エウレカセブンのレントンも独り言をブツブツとしゃべりまくる。これに対し、ジブリのアニメではモノローグはほとんど使われない。なるほど、ジブリの映画は「映画」なわけである。
一方、マンガ、小説ではモノローグはスタンダードな表現として受け入れられている。
物語を語るときに、モノローグという手法は非常に楽である。一気にそのキャラクターの置かれている状況、感情が説明できるからだ。モノローグを使わなければ、映像と演技、演出ですべてを語る必要が出てくる。それゆえ、低予算のTVアニメーションではモノローグが多い。小説においてモノローグ、一人称描写が多いのは、感情描写や状況描写を客観的描写のみで行うことにどうしても限界があるからだ。
そう考えると、マンガという表現は丁度、映画と小説の中間に位置していることがわかる。
プルートゥの三巻 が出た。本編も非常におもしろかったが、巻末の夏目房之介氏の論評に「浦沢マンガは焦ったときの記号としての汗を書かない、リアリティを追求している」という指摘があり、なるほど、と思った。当然、モノローグは「ひとりごと」のレベルに押さえられている。
また、同時に購入した、金魚屋古書店 収録の、「ねこたま堂」が非常に面白かったのだが、こちらはモノローグが多用されており、いささか非現実的な話であるのに、小説に引き込まれるような効果を生んでいる。
こちらの作品を見て思うのは、モノローグをマンガで使うことは、静止画という限られた表現において端的に状況や感情を表現することができるのはもちろんであるが、マンガというメディアが小説と同じく非常に「私的」なメディアであることが関係しているように思える。
小説、マンガ、ゲームはコンテンツと観客が一対一で対峙することによって成立している。それに対し、演劇や映画、TVはいかに没入しようとも、同時に見ている他の観客の存在を消すことはできない。
先のブレードランナーのモノローグも、劇場で聞くとなんともうっとおしい感じがあったのだが、後にビデオ、小さなTV画面でみると、これはこれで、ハードボイルド小説のような雰囲気をかもしだしてくれるから面白い。
アニメ「ほしのこえ 」がモノローグで構成されているのは、セリフと動画を合わせる手間をはぶくためだったというが、それが独特の雰囲気を作っていることは確かだ。
自分のマンガ「ルナパーク 」でも、ここ数作品は主人公のモノローグを多用するようになったのだが、ひとつは4ページという限られたページ数の中での表現だったのだが、これが、落ち着いた雰囲気を醸し出し、世界観をふくらませるのに非常に有効な手段である、と最近気が付いた次第。
 

投稿日時: 火 - 4月 18, 2006 at 06:34 午前     | |   Top